2.03.2010

我が愛国論。

自尊心のない日本。
日本において日常会話のなかで日本の批判は冷静な立場での意見に聞こえるという価値観が多数である。
その批判の中身には大きく2種類ある。
一つは日本人としてこの国を良くしたいと思う心からの批判。
2つ目は日本及び日本人は罪深い国家、人種であり批判、否定ありきの批判である。
日本批判の為の批判論調を繰り返す人は自分が日本の一部であるまた、日本から恩恵を受けて生活をしていることを見事に忘却し自分が日本を改善する義務と責任がある事も同時に忘却した立場から貧弱で論理的矛盾に気付かず話す。
そしてその手の問題点や批判の長文を語ることが賢人であると勘違いする。

日本の前回の大戦における敗北の経験から国を愛することは軍事ナショナリズムとイコールで軍事主義の復活、愛国派は街宣車を乗り回す暴力的イメージのある政治結社の右翼集団と同じであると論理の飛躍がある。
そこには、静かな愛国や落ち着きのある愛国はなく、愛国は可笑しいという論理矛盾を思考停止のまま強化反復された歴史がこの戦後民主主義の歴史である。

むしろ日本批判を絶対とする左翼の無責任主義が日本のインテリといわれる馬鹿なゴミ知識の豚には主流であり概ね自信のない日本人達も左よりで中立スタンスという暗黙の了解の中に安住している。

勿論、極端な愛国は視野狭窄であり未熟である。
しかしこの国で18歳を超えてまで自国の愛国心無き批判の化粧をした罵詈雑言は未熟以上に自律神経が分裂した人格破綻者でしかない。または、国賊、民主主義の責任を放棄したただ飯乞食である。

冷静な愛国はこの国でいつ、どのタイミングでコモンセンスとして大人たちが堂々と語るのだろうか?
いじめ、自殺、閉塞感の充満、自律性のない経済大国の日本、政治的リーダーシップの無い国際舞台での日本の立ち位置、これらの根本的病根は冷静な愛国や責任ある民主主義的議論のない処にある。

この国の病巣は本当に根深い。
そして処方箋はこの飽食の不況にある矛盾の最大級の状態において困難を極める。
日本は健全な社会科学的意見を創造することなく、戦後の軽武装状態でアメリカの威を借用しながら経済重点の政策に専念した経緯がある。

その代償が犠牲の具現化として未熟で歪でバランス感覚を欠いた日本を作り上げた。
経済を復興させていただいた先の世代を無意味に責める気はない。
しかしながら、この惨状たる覇気なき日本のあり様は有害極まりなく今の50代より下の世代だ再構築をしなければならない。

日本で愛国を語る難しさは覚悟の無い姿勢から来る。
直ぐに戦争の覚悟かと問われる?
それも含む全てのこの国に対する覚悟というのが答えだ。

戦争は外交手段の最終形であり、その前のギリギリ、議論や対話の緊張感無くして意味がない。

愛国はもっと身近で自然で思慮深く、納得のゆく形で国民の心の中にあるべきだ。
日本を好きな人が日本人として楽しく生活や人生を送れる国を僕たちの世代は目指すべきなんだろう。