8.25.2010

怒りを忘れた国:日本

怒りを忘れた国:日本




昔、親父が俺に言ったセリフ。

「怒る事の出来ない男は自信の無い証拠である」

 

俺はいつも不機嫌で暗い親父が死ぬほど嫌いな存在だった。

しかし、今思うと軟弱な俺を見て怒っていたんだと思う。

そして、その怒りは親父の強烈なエネルギーの証しでもあった。



子供の頃、6歳か7歳ぐらいだが大阪の淀川のほとりで思ったことがある。

この川は大人は大きいというが俺は小さいと思う。そして、こんな川が大きい言う大人たちに何とも言えない虚無感というか、男性的な得-がん強さを感じない。



こんなことも感じた。

アメリカ大統領のレ-ガンをTVで見てだ。そのシ-ンはレ-ガンがアメリカ人の大衆に拍手を浴びて大きく手を振る場面。

なんて明るく堂々としていて楽しそうなんだと。



1945年に戦争に敗れ、ひたすらアメリカ追従で日本は経済軸のみの価値観で生きてきた。

経済は強い日本の実現。

しかしながら、それ以外に語るべき言葉や力や怒りを持たない人間の集団になった。

これは代償としてはでかすぎる。

物質的繁栄を謳歌している日本にダイナミズムも激情もなく、今は少子高齢化、デフレ、20年不況の中で無政府状態より無感情国家になった。



確実に長い時間の中で思考能力や感情をすり減らし虚無的になった。

これは視野の狭さ、情報の無さが強大な引きこもりを実現させたということだ。

こんな分析は俺以外にも大量に日本論として存在するし面白味もない。



ここにきて真逆に考えてみた。

日本はそんなに不幸な国なのか?

ホントは霧に包まれていると考えるのは間違いで最高のクイズ番組の放送中の中に生きているのではないかと。



親父が生きてきた時代と俺が生きてゆくこれからの時代は違う。



全てを楽しむ能力を習得し毎日、意地になって嗤いころげてやろう。

それが、俺の怒り方の一つである。

8.12.2010

刑法39条と隷属的な人々

日本の法律では刑法39条に『心神喪失者の行為は罰しない』と定められている。
心神喪失者はどんな罪を犯しても不起訴、無罪の対象になるということだ。
また、心神耕弱者は罪は軽減される。

犯罪者の刑罰は規定は難しい側面がある。
犯罪は、社会的要因、経済的要因、環境、資質、などが絡み合い犯罪に至ることが多い。

納得いかない判決や起訴が溢れているこの現代社会の中で、心神喪失、心神耕弱の絶対基準は本当に正しいのか?

また、犯罪者は社会的適合能力の欠如により、仕事が続かない、人間関係が構築できないなどにより、要は意志の弱さにより法律の外に陥る。

はっきりしたいことは、判断能力がありながら、本人の甘えや怠慢などを理由のすり替えで巧妙に罪から逃れる人がいるし、また、罪からの逃走を幇助する輩がいるという現実である。

この世の中では、言語能力を練磨し、知性や知識を磨き、頭脳を鋭敏にしておかないとある日突然不利な立場に陥ることがあるということだ。

日本国は正直でストレ-トなメッセ-ジをアナウンスすべきである。

国民は頭脳を磨き、強固な意志を保持して本人の人生の自由ににおいて健全に生きるべきであると。

昔、エジプト文明展に行ったことがある。
そこでは、支配層と奴隷の関係の中で巨大な文明が気付かれた事実に気付いた。
法律や神学、医学に従事する知的エリ-トが支配層にいて、無知なものは奴隷として隷属する立場にあるという事実。

現代社会では、一般人でも知識の入手は容易である。
しかし、本当の情報や知性は昔よりも判断が困難かもしれない。
ガセネタ、印象操作、洗脳術、偏向報道、情報遮断、マインドコントロ-ル、集団催眠などのメソッドが充実している。

頭脳明晰を目指すには、圧倒的な知識量を得るためには多種多様なジャンルの文章を読み込み情報に敏感になり、判断力を鍛え、本質と見抜く思考方法を獲得しない限り、偽情報の濁流に飲み込まれる。

自己効力感を獲得し、幅広い知識を獲得する。
セルフトークの中で本質思考を練磨する。

生きている時代の中で自分の頭脳を酷使して深く強い自分の言葉を構築して文脈を得る。
その中で、脳を支配されること無く優位に立つ。
隷属を望む無自覚な奴隷のなることを望む民衆か、牙を持つために言葉を磨く狼になるかは自己選択の刹那の連続の中で生きるしかない。

8.10.2010

8月の時間

夏の暑さは大好きである。
暑いことは耐えられる。
そして、太陽の日差しが容赦なく照りつける時間に見上げる青空が大好きである。
何より底抜けの生命力を感じるその瞬間に自由を感じる。
子供のころに夏休みに虫取り網と籠を持って草むらを探索したり、野球をしたりしてた時のことを強烈に思い出す。
子供時代の楽しかったある晴れた夏の日のとこを。
8月は短い夏の一日を大切に遊び呆ける時間のように感じていた。
8月が終われば暑さの残る9月。
そこには終わりと始まりの微妙な悲しみしかない。
夏が一年中ならいいのだがそうもいかないし、そうなら問題もあるし。
ビールが旨い季節というとらえ方の大人より子供の頃の夏が楽しかったことは自分の中では間違いない事実である。

仕事を教える。

人に仕事を教える。
仕事を教える前に人生や働きがい、生きがいや追求心を教える。
言葉で伝えることには限界がある。
体感や成功体験が無いと分からない。
本人の真剣さが重要である。
教える方の真剣さが重要である。
本気しかない。

8.08.2010

サマソニ回顧録

スティービー・ワンダーのステージを本日見た。
大物の貫録でパワフルなステージであった。
60歳の彼は往年のヒット作を連発して歌い上げていた。
声量、声の高さ、ライブアクト、演奏、ステージに上がる全てのミュージシャン達への接し方全てが完成されたライブだった。
Overjoyed.
My cherie Amour.
Lately.
Happy birthday.
etc.
本物を見るとレベルが上がる気がする。
得した気分というと安直だが、そんな感じだ。

それ以外にもマルボロを販売していた女の子、エジプト料理の売店のエジプト人男性、コロナビールの冷たいのど腰と販売していた売り子の女の子、全ての会話を楽しんだ。

充実した夏フェスの一日。

Fukuoka

Ocean Stage

Nagoya nameless picuter


Summer sonic 2010 in Osaka











8.03.2010

Nightmare.

文章を書くこと。
考えたことをまとめることと同義である。
現実の名も無き刹那に対して自我を閉じ込めるか。
記録された文章は時間と共に有意味を変容させる。
正義や真実も時間に翻弄されながら当時の意味を失う。
悪い夢は忘れて眠りにつく。
壊れた言葉をかき集めて眺めていても無意味だ。
感性が自己の中で暴力的な意味を帯びて存在する。
悪夢は殺すに限る。
希望の破片をひそかにしまい込む。
光が射す隙間から眺める太陽に似た絶望を嗤う。

Japan life in picture.

白昼の灼熱に覚える疲労感が夜の生ぬるい風にさらされているといつもの音楽が虚無な気持ちにさせる。
感覚を最大限に冴えさせて生きることに集中すると都会の無表情な規律や鉛のような沈黙に呼吸困難になる。

タバコがまずくて眠れない夜には少しだけビールをあおる。
行き止まりの壁のような夜の闇に。
語ることが全て無意味に思えてくる。
言葉が意味を無くしてゆく。

生きるエネルギーを綺麗な形で奪う。
ピアノの旋律に似た上品な静寂性だ。

まんまと引っ掛かる哀れな人々。
品のある犯罪に似た媚薬。
虚構の中の真実と現実の中の虚無感が美しく交錯する。

優秀な悲劇が、饒舌な喜劇に勝る。
退屈な日常の連続性の中で確実にドラマが失われモノクロームの写真になる。

8.02.2010

New things.

新しいアイデアや発明、発見を生み出す人は独創的な人である。
自分の視点やモノの見方を独自に持ち考え抜く人が唯一無二の考えを持つ。

日本人は均質的、同質的な感覚を持つ中で大量生産をして工業的な発展を遂げてきた。
また、横並びの意識の中で大量消費をしてきた。

簡単な生産物は後進国でも十分に生産できる。
先進国たる位置づけは付加価値の高い、情報や生産物を生み出すことに価値がある。
ならば、情報や知識、感性、教養、技術、アイデア、サ-ビスなどの情報空間での優位性を保たなければならない。
知恵の集積たる結晶を生み出すことにおいて優位に立てる。

日本人の横並び感覚では今からの時代は不利な時代かもしれない。
勿論、一億二千万人の日本人を一般化して語ることに無理さや乱暴さがある。

しかし、高度経済成長とその後のバブル崩壊、20年デフレ不況の曖昧な時代の連続性の中で時代の浮沈に翻弄されている感がある。

方や、外国に目を向けると経済レベルの尺度に関係なく活き活きとした人間がいる。
欧州に関しては今現在がGDPレベルで日本より下でも歴史の財力蓄積が基盤となりゆとりに繋がっている。

経済とと人間の富裕さそして生きがいや活力。
全てを求めるとき日本人の個々の自我や個性の炸裂しか道は無いと思う。

日本人の個々の精神的束縛の解放や視野の拡大は情報の質の向上と人々のディスカションしかない。

そして、個性を個性として認める。
責任を背負った個性。

幾つかの課題が日本人自身の精神にある。
明るく突き抜ける感覚の強さ。
自分の軸として考えても今直ぐに言葉で言い表せないが、これについては哲学的思考を徹底してでも考えて自分の言葉で言い表したい。