ブログを初めて昨日で100回目の投稿をした。
12月12日に何気にブログを立ち上げて、意味の無い、文章も可笑しい、錯乱文章をめった打ちして、恥の上塗り的記録である。
ブログを初めて、感情的文章の反省から、文法の可笑しい英作文で羅列したり、思うままに書き連ねて自己満足のブログし終始している。
ただ、毎日、自分の直感や感性、気になることを記録してゆく過程で、自分の意見をまとめることの難しさや思うこと考えることの表現の困難さを体感できた。
日々の雑感や小さなことの追憶の中に、より自分の感性を磨き、自分の生きる意味を色濃いく表現したい欲求が増幅してゆく。
きっと、一部の芸術家やアーティストの特権や職業的権利、義務でなく、現代の混沌とした渦中の時代に生きる現代人において、表現することは呼吸することと同じくらい大切であると思う。
その表現方法は人によって違う、書く、描く、奏でる、歌う、語る、踊る、記録する、働く、など色々だ。
一つ基本は考えるということや感じるということだ。
その感性が炸裂し沸点を超えるとき、インスピレーションとして何か表現欲求が強く内在するのだと思う。
そして、大なり小なり人は快感や快楽、欲求を求める。
社会的躍動感に包まれ、希望のある生活や活動を繰り返すときに自然とポジティブな躍動が自分にみなぎる。
不況や混迷の中では、自暴自棄になり犯罪や薬物乱用に走り集団心理として腐食化してゆく。
社会的に希望を与え導くのが政治家の役目であるならば政治家もアーティストであり哲学者であり人間が働く職業の中で、意味深いものである。
ひとたび、逆に悪をばら撒き、自己利益に走れば政治家は公の犯罪者、愉快犯であり憲法で保障された公開犯罪者である。
話が反れるので元に戻すが、ブログは自己啓発の術として良いと本で書いていたが、良いかどうかは別にして自分の公開記録として面白い。
きっと俺のブログは誰も読んでいないので少々、反社会的な論調でも良いと思っている訳でないが、逆に、官僚の作文みたいなクソ文章よりよっぽど自分らしくあるがまま、感じるまま書くことに没入してゆく過程で快楽である。
いつでも飽きたら止めようと思っているし、無理に永くやろうとも思ってないのでいつでも閉鎖する可能性を残しながら、やろうと思う。
ブログをまだ2ヶ月ほどしかしていないので、この先、なんとも言えないが、もっと感じるまま書いてやるぜ。