2.16.2010

誤解と主張

在日韓国人が嫌いという自覚は自分にはありません。
在日の人でも尊敬する人がいます。
孤高の空手家、大山倍達総裁に関しては心底尊敬しています。
先日、東京の護国寺の墓参りもしてきました。

大山総裁は色々な話がありますが、日本を愛していた愛国者でした。
狭義的に愛国を唱えるのも民族主義に陥り良くない。否、寧ろ悪い。
しかし、日本においては浅薄な左巻きの反日日本人を始め、日本をなじる外国人が多い。
メディアが先導主犯となり過剰に情報操作されたニュ-スを朝から晩までたれながしている。
この国、日本において愛国を語ることは難しい。
日本が好きという言葉を国益の観点から述べる時に付きまとう特有の疲労感がある。
明確なその霧のような閉塞感は自分なりの解答としてはこれである。
日本の敗戦による劣等感、自律性の欠如、父性の欠如、日米安保の双方の片務性の高い状況下における自律神経失調症的国家の実像などである。
国際政治は巨大な人間関係である。勿論、複雑多岐にわたるが。
そして、人類は科学技術の向上で快適な現代社会を一部で実現しているが、根本的に腕力の力学が根底に冷厳と横たわっている。
それが、世界の主要先進国を始め、殆どの国において軍事力を保持し核開発を辞めず、前途多難な核の拡散防止、廃棄論につながっている。
ここまで書くと、戦争肯定、核の保有絶対賛成論者というレッテルを貼られる。
そうじゃない。反対は簡単だが、現実がそう簡単にはいかないといいたい。
フランクリン・ル-ズベルトのspeak softly.but take a big stick.ゆっくり話せ、しかし、棍棒を持ってが極めて現実的である。
愛国からいつも通り脱線したので話を戻します。
反日をアイデテンティ-とする外国人に防戦すらない、防戦どころがドMになり下がり自虐史観に快楽を求める作られた強大な無脊椎動物である日本に怒りを覚える。
勿論、反日在日外国人は嫌いである。
みんな好きな国に住めばいい。悪い処があるなら良くする努力を一人一人がすればいい。民主主義の義務と責任である。
意見、批判は大切である。しかし、無責任な文句は無用で
ある。
国があることは有難い。日本のような高度に礼節が保たれ平和な国は国内の文脈においては素晴らしい。
あくまで国内の飽食の平和においてである。
日本は近代化の達成を終え、経済に専心して長期的平和の中では支払うべき代償や堅持すべき哲学、歴史観を喪失したまま迷走を繰り返している。
経済以外の尺度を考え抜いて構築してきた精神的軸が確固としてあればもう少し国内の政治や議論も成熟し現実的で新たなる希望が日本の中にも芽生え明るさをとりもどすのでは無いでしょうか?
殆どの人が読み書きができる日本においてここまで普通の危機感破壊され壊れた虚無感が飽食のラッピングで巧妙に包装されている国は世界広しといえどもないであろう。
自分の感性にある本能的な懐疑心は過剰で攻撃的に表現してしまうことろが悪点と自負しておりますが、それでも今の時刻においての外国人参政権のみならず他にも腸が煮えくりかえることが多い所存であります。