12.29.2008

時間と空間と意味と存在の私的考察。

時間と空間の中で人間は意味を求め存在している。
そこで、疑念が生ずる。
そもそも意味を求めることに意味があるのか?
意味、無意味は何を基準としているのか?
人間の存在が有限である命の不安定さの中での意味とは何なのか?
人類共通の意味とは何か?生きるための意味論に集約して良いものなのか?
100年後の今、此処での自分の存在が確実にないと言える中での生きる意味となんだろう?
意味自体が幻想なのか?
人は面倒なので、何時からか、真剣にこんなこと考えなくなる?
ヒントは自然界にあるのかもしれない?
人は否が応でも、爪、髪、髭がのび、皮膚は細胞の入れ替わりにより新進代謝され、心臓は鼓動し、傷口は癒される。
生存を肯定した秩序の循環が行われる。
植物は生育し、動物は種の保存に向く。
人類は大脳が発達し、言語を持つことで複雑な思考回路を発達させ文明を築いた。
より快適に、より良く生きるために貨幣経済を発達させ、人権という概念を守り抜き、幸福の追求をする為に、民主主義を修正しながら今日に至る。
現代において意味が崩壊している。
理想の追求が強欲と化して、矛盾を孕みながら突き進むことで強大な不均衡を生み出した。
そして、宗教、経済、政治、人間社会の存在自体が競争の手段になった。
地球は物理的に有限である。
人間の寿命も有限である。
そもそも、哲学の範疇であり、入口であり出口である。
信仰とは違う、科学的趣向の伴う公平かつ冷静な哲学があると思うが、声が小さいのか皆に聞こえない。
無意識的にフィットしたシンプルで且つ生活的な哲学を渇望する。
有限の時間、有限の空間、特定の意味、唯一の存在である地球に生きる人間として。
無限の時間、無限の空間、膨大な意味、究極の存在があるような、無限の宇宙の中の地球の一人として、常に、自然は無言で無表情で、静かな小さい声でのメッセージしか発しない。
気をそらしたり、油断すると、失ったり、見逃しそうな日常のメッセージである。
そもそも不完全な人間が崇高で有意義な意味を構築したり、見つけたりできるのかという基本的疑問が再度、湧き上がる。
そして、そうこう言いながらも意味を求めずにいられない自分の存在があり生きる意味を身の回りの全てから感じ取ろうとする。考え抜こうとする。
考えることは生きること。
人間と動植物の違いである。
けれど、それ以外にも、人間は笑うことができる。
この行為は高等動物の成せる技である。
最近、俺はどんな瞬間にどんなことで笑っただろうか?
笑うことを忘れ、意味を失い、存在を壊し、時間や空間すら無駄にして生きていたかもしれない。